喉ニ小骨ガ

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「その他短編」
ドメスティックバイオレンス弁当


ドメスティックバイオレンス弁当(後編)

2009.08.14  *Edit 

6.今日のおかずは鮭


 ミーコが死んでから、一年。
 ナオキは相変わらず、暴力と謝罪を繰り返した。
 私はもうすっかり慣れてしまったけれど、周囲の人には私たちの関係が理解してもらえない。
 リストカットをすることで命の大切さを知る人がいるように、私にとってもそれは単なる確認作業でしかないのに。
 いろいろなことが鬱陶しくて、私に干渉しようとする友人や知り合いとは、縁を切ってしまった。

 すっかりくたびれ切ったこの部屋は、“賽の河原”だと思う。
 ここには、ナオキという名の鬼が住んでいる。
 積み上げたものを何度崩されても、また積み上げることしかできない私は、罪人なのだ。
 いつまでたってもナオキの期待に応えられない……使えない女。

  * * *

「ただいま……」

 玄関から、張りの無いしゃがれた男の声が聞こえた。
 近頃ナオキは毎晩飲んでくるから、たいてい帰宅するのは夜十時過ぎだ。
 古いフローリングの床が震えるくらい、ドスドスと乱暴な足音が響き、数秒後にはリビングの戸が開かれる。

「あー、今日も疲れた。おい、てめえそこのゴミどかしとけよ」

 ボサボサの髪を飾りの無いヘアゴムでひとつにくくり、黒い安物のジャージを着た私は、ソファからのそりと起き上がった。
 重い体をなんとか動かし、ローテーブルに広げたポテトチップの袋を片付けはじめる。
 砕けたポテトのカケラがカーペットに落ちるけれど、気にしない。
 どうせ、この部屋を掃除するのは私なのだから。
 それ以前に、このカーペットは、もう汚れきっている。

 上着を脱いでワイシャツ姿になったナオキは、私に見向きもせずキッチンへ向かった。
 その手には、いつもどおり『DVストア』のビニール袋がぶら下がっている。
 ブーンと羽虫が飛ぶようなレンジの稼動音に、珍しく鼻歌が重なる。
 今日のナオキはいつもより機嫌が良いみたいだ。
 テレビを見るフリをした私の、目も耳も頭も……細胞の全てが、ナオキ一人に集中していた。

『――チーン!』

 レンジが温め終了の音を鳴らした。
 それは、私のレクイエム。
 ナオキは頬を緩ませながら、私が座るソファの斜め右、赤いケチャップの跡が残るカーペットに胡坐をかいて座り込んだ。

 大きく骨ばった手が、割り箸袋を引き裂き、箸を割る。
 弁当の蓋を開けてまず口をつけるのは、どの種類の弁当にも必ず一つだけ入っている大きなから揚げだ。
 香ばしい脂の香りに包まれ、ナオキは恍惚とした表情を浮かべる。
 一気に頬張ると、時間をかけてしつこく咀嚼し、喉仏を上下させてそれを飲み込む。

「あー、やっぱこのから揚げうめえ」

 その台詞は、一字一句変わらず、毎晩繰り返される。
 そこから徐々に、ナオキのテンションは下がっていく。
 少しずつ震え出す体をなんとか押さえながら、私はナオキの一挙手一投足を見つめる。

「ここの弁当、確かに安いよ。でも、他の具は手ぇ抜きすぎだろ?」

 私に話しかけているのか、独り言なのか分からないけれど、とりあえず私は黙ったままうなずいた。
 揺れた後れ毛が頬の吹き出物にかかり、チクチクしてかゆかったけれど、私は我慢した。

 今日のメインは、ナオキがそれなりに好きな照り焼きハンバーグではなく、薄っぺらく干からびた鮭の切り身だった。
 ナオキはしばらく迷い箸をした後、その鮭に手をつけた。
 口に含んだ直後、ナオキの薄い眉の間にくっきりと縦ジワが入った。
 どうやら骨が残っていたらしい。
 ナオキは、顔をしかめて口の中から小骨を抜き取ると、ソファに腰掛けた私に向かって投げつけた。

「てめえ、この魚に骨があるの、見えてただろ?」

 いいえと言えば、歯向かうのかと殴られる。
 はいと言えば、何故教えなかったと殴られる。
 私は口を開かず、黙ってナオキを見つめ返した。
 大丈夫、今日はまだ大丈夫。
 心の中で言い聞かせながら、私は命を持たない人形のように身じろぎ一つせず、ナオキの言葉を待った。



7.お弁当の美味しい食べ方


 ノーリアクションの私に、チッと舌打ちしたナオキの興味は、再びテレビと食べかけの弁当へ向かう。
 幸い、テレビにはナオキの好きなアイドルが出ているため、その横顔はいつもより穏やかだ。
 出会った頃のような柔らかい微笑で、自分好みの美少女へと視線を向けていたものの、画面は無情にもCMへ切り替わった。
 同時に、ナオキにいつものスイッチが入る。

「不味いな、このポテトサラダ、温まっちまってよ! なあ、この弁当オカシイよな? サラダも、おひたしも……熱いと不味くなるモノが混じってるのに、全部一緒くたにレンジで温めるなんて、ありえねーだろ?」

 独り言じゃない合図は、私から目を逸らさないこと。
 私は、ナオキのすべてを理解しているのだ。
 何か返事をしなければ。

「それは……同じ容器に入ってるから、仕方ないと思う……」

 蚊の泣くような微かな声が、私の唇から漏れた。
 これは、本当に私の声だろうか?
 私はそっと、自分の唇に触れてみる。
 皮がめくれてがさつく唇が、小刻みに震えている。

「おい、俺の質問の答えになってないだろ?」

 私はごめんなさいと謝った。
 なるべく猫背になって、伸ばした前髪と横髪で顔が隠れるようにして。

「あの……レンジに入れる前に、その、冷たく食べたいものだけ、別のお皿に取れば……」

 うちにはもう、陶器の食器は一つも無い。
 包丁もフライパンもキッチンバサミも、凶器になりそうなものは全て捨ててしまった。
 そういえば紙皿は用意していただろうか? と、私は一瞬余計なことを考える。
 だから、ナオキの変化に気付くのが遅れた。
 私は、答えを間違えてしまった。

 ナオキは涼しげな目を細め、薄ら笑いを浮かべて立ち上がった。
 忘れないように、テレビのボリュームを上げて。
 CMが終わって歌のコーナーに入り、決して上手とはいえないラブソングが部屋に充満する。
 私は、ニ人がけのソファのなるべく奥へと腰を引いた。
 殴られるなら、窓際や壁際はダメだ。
 ソファの上なら、自分の体でモノを壊すこともないし、多少はクッション性があって怪我も軽くてすむ。
 なにより撥水加工された合皮の上なら、血で汚れても掃除しやすいし。

「あのなあ、俺は毎日疲れて帰ってくるんだよ。この弁当に入ってるから揚げだけが俺の癒しなんだ。それを一秒でも早く食べたいと思ったら悪いのか? 別の皿にいちいち移せっつーのか! ああっ!」

 私はナオキの額に浮き出る青筋と、小刻みに震え出す体を見つめた。
 謝罪の言葉は、目の前の鬼には届かない。

  * * *

 星占いなんてちっとも当てにならないと、私は落胆した。
 ナオキは、食べかけの弁当を手に取らなかった。

 ナオキが弁当を手に振りかぶり、私に投げつけてくるのが一番ラッキーな日。
 次にラッキーなのは、平手。
 その次は、体への蹴り。
 最悪なのは、拳で顔を殴られること。
 それとも、モノで殴られることだろうか。

 頭の皮膚は思ったより薄くて、すぐに切れてしまう。
 血がたくさん出ると、たいした怪我でもないのに病院へ行かなきゃならない。
 そのたびに、新しい病院を開拓するのが面倒だ。
 ハズレの病院に当たると、前に作った傷のことをしつこく問いただされるから。

 ぼんやり考えていた私の顔に、まず拳が一度飛んできた。
 やっぱり、今日はちょっとだけラッキーかもしれない。
 鼻血は出たけれど骨は折れなかったし、歯も無事だ。

 ニ発目は、どうやらモノで行うらしい。
 ローテーブルの上の灰皿は、一度軽いアルミ製に変えたのだけれど、それを縦に使われると皮膚が切れやすいことに気づいてから、丸みがあって軽いプラスチック製に交換しておいた。
 案の定、灰皿を手に取ったナオキは、私ではなく壁に向かって投げつけた。
 ああ、これもラッキー。
 そこはもう既に穴が開きかけているところだから、被害の度合いは低い。

 血走ったナオキの目は、室内のあちこちをスキャンする。
 悪さをしたこの人形を、効果的に躾ける手段を求めて。
 ナオキが次に視線を定めたのは、テレビの上に飾ってある……特別なアイテムだった。

「ナオ、キ……?」

 人の魂を取り戻した私は、ソファの上を降り、ずるずると壁際へ移動する。
 ナオキは、手にしたモノを見つめ一瞬口元を綻ばせると、私へと視線を戻し「別人だな」と呟いた。
 涼やかなその瞳には、嫌悪感が滲んでいる。
 部屋の隅に座り込んだ私は、額をカーペットに擦り付けた。

「お願い……許してください……」

 それは、この部屋に引っ越した日からずっと置いてある写真立て。
 フォトフレームの中には、頬を染めてはにかむ私と、華奢な肩を抱き寄せるナオキがいる。
 あの写真を撮ったのは、ちょうど引越しの荷解きを終えた夜だ。
 ナオキは「記念に」と私の肩を抱き、長い腕を伸ばしてアップで撮影した。
 一生この人と寄り添い、支え合って暮らしていく……そんな実感がじわりと湧いてきて、私の頬は赤く染まった。

 写真の中の二人は、今も変わらず幸せそうに笑っている。
 写真と同じように微笑んだナオキは、笑わなくなった私に罰を与えるため、それを振りかざした。

  * * *

 毎晩私を殴った後、必ずナオキはその写真を私に見せてきた。

『この頃は良かった。お前は可愛かった。俺のために何でもしてくれた。ミーコもいた。変わったのはお前だ。早く元に戻ってくれ。そうすれば俺はこんなことしない。本当はしたくないんだから』

 そして私は、写真のナオキに誓いの言葉を伝えるのだ。

『もしこの日に戻れたら、もうニ度と同じ過ちはくりかえしません。私はナオキのために働き、ナオキの妻として一生ナオキを支えて生きていきます』

 毎晩繰り返しても、私はその誓いを守れたことがない。
 私は殴られなければ家事をしない、だらしない女になってしまった。
 もうミーコはいないというのに、キッチンやゴミ箱には常にあの気持ち悪い虫が湧いている。
 床も壁も、虫が這いずり回る。

 私の目の前を、枯れ葉のような黒い虫が必死で手足を動かして走り去った。
 それを追って動いた額に、一度目の衝撃。
 笑顔のナオキは、改心した振りをして何も変えようとしない私に、もう謝らせてもくれない。
 分厚い金属のフォトフレームが、私の頭に容赦なく振り下ろされた。

 ――痛い。

 プラスチック製の丸いフォトフレームに入れておけばよかった。

 でも、もう遅い。
 始まってしまったから。

 一、二、三、四、五、六……その先は、数えることすらどうでも良くなった。
 しばらくすると痛みは熱に変わり、そのうち何も感じなくなった。
 ただ鈍い音が、頭の中に響いてくるだけ。
 口から自動的に漏れていた悲鳴や嗚咽も止まり、代わりに私の頭からは赤黒い液体がぽたぽたと落ちていく。

 いったいどのくらいの時間が経ったのだろう。
 人形遊びに飽きたナオキは、気まぐれに写真立てを放り投げ私の上から降りた。
 再びカーペットに座り込み、テーブルに残された食べかけの弁当に向き合うと、ポンと手を叩く。

「――あっ、俺、すげーイイコト思いついた!」

 サラダとおひたしは、最後に食えばいいんだよな。
 しばらく置いとけば、あっという間に冷めるんだから。

 ナオキは嬉しそうに笑いながら、程よく冷えたポテトサラダを頬張った。
 弁当が投げつけられる“ラッキーデー”は、もう来ないだろう。
 ナオキは、弁当を最後まで美味しく食べる方法を見つけてしまったから……。



〜エピローグ〜


 私はナオキの広い背中が好きだった。
 だから、少し汗ばんだワイシャツ姿のナオキに、背中からよく抱きついた。
 ナオキは「こら、着替えられないだろ?」と困ったように笑いながら、大きな手のひらで私の腕をやさしく引いて、体の正面に引き寄せ、しっかりと抱きしめなおしてくれた。
 栗色にカラーリングし、ふんわり巻いた髪を何度も優しく撫でてから……額に、頬に、そして唇に触れた。
 ナオキが私の髪を撫でる、その大きな手はいつも温かかった。

 ナオキ……。
 ナオキ……。
 私のせいで、こんな風になっちゃって、本当にごめんなさい。

 私は体を横たえたまま、パチパチと瞬きを繰り返した。
 いつの間にか溢れた涙が、視界を曇らせていた血液を洗い流し、私は視力を取り戻した。
 白いシャツの袖口から胸元にかけて、赤い花を散らせたナオキの姿が見える。

 早く洗わなきゃ、あの染みがまた落ちなくなってしまう。
 シャツのストックは、まだ残っていただろうか。
 明日は新しいシャツと、丸いフォトフレームを買って帰ろう。

 その前に、一度病院へ行かなきゃいけないな。
 最近病欠ばかりだけど、会社で傷が開くと迷惑をかけてしまうし。
 またお金借りなきゃ足りないかな……。

 ――あっ、私、すごいイイコト思いついた!

 明日の帰りは、DVストアに寄ってみよう。
 それで『から揚げ弁当』を作ってもらえないか、頼んでみるんだ。

 そしたら、きっとナオキ、喜ぶよね……?
 そしたら、もう一回、私のこと撫でて、くれる……かも……。

「ナオキ……」

 私の声は、ひゅうひゅうと掠れて、もう誰にも伝わらないただの音でしかなかった。

 私は、あの写真立てのように微笑みながら……瞳を、閉じた。



〜後日談〜


 私は今、爽やかな井草の香りが漂う和室で、温かいコーヒーを飲んでいる。
 今時珍しい掘りごたつ式のテーブルは、コタツ布団がかけられていないとレトロなテーブルにしか見えない。
 艶のある木目を見ていると、徐々に気持ちが落ち着いていく。

 一辺に二人ずつ座れる、正方形の掘りごたつ。
 そのテーブルに、私の知らない男の人が三人と、女の人が四人いた。
 私を入れて八人と大所帯だけれど、居酒屋みたいに大きな掘りごたつにはぴったりの人数だった。
 コタツの下、誰かの動かした足が、私の足に触れた。
 ずっとうつむいていた私が、びくりとして顔を上げると、そこにいた七人の知らない人たちは……優しく微笑んだ。

 私の斜め右にいるのは、この家族のお父さんなのだろうか。
 還暦を過ぎたくらいのおじいちゃんが、シワだらけの顔をますますしわくちゃにしながら、泣き笑いのような表情を浮かべている。

 私の正面に座る、三十才くらいの男性二人は、たぶん息子さんだろう。
 頭にタオルを巻いたTシャツ姿の彼らは、毎日重たい荷物を運ぶ仕事のせいか、かなりガタイが良い。
 息子さんとおじいちゃんの間に座っているのは、きっとお母さんだ。
 二人の息子さんにそっくりな、太い眉毛を釣り上げた彼女が、張りつめた空気を吹き飛ばすように豪快に笑った。

「お嬢さん、安心していいからね。うちの息子はチビの頃から空手をやらせてきたんだから!」

 その台詞に、強くうなずく兄弟。
 弟と思われる彼には、すでにお嫁さんが居るらしい。
 掘りごたつの影に隠れているけれど、しっかりと手を握りあっているのが見えた。
 弟のお嫁さん……二十代半ばくらいのその女性は、線が細くエプロンが似合うロングヘアの美女だ。
 私と目が合うと、彼女は目を伏せて腰を浮かせた。

「あの、コーヒーお代わりします? それともお茶にしましょうか? あ、確かいただきもののお菓子が……」

 立ち上がりかける彼女に、私は首を横に振った。
 頭を動かすと、縫ったばかりの傷が引き攣れて気持ちが悪い。

「いいのよ、少し落ち着きなさいよ」

 三十代後半くらいの、少し化粧の厚い女性が、彼女の腕を掴んで引きとめた。
 三人きょうだいの、長女にあたる人かもしれない。
 細面で目つきの鋭い彼女は、お父さんの方にそっくりだ。

 最後の女性は、五十才くらいのおばさん。
 お店のエプロンをつけているし、玄関を上がるときにお邪魔しますと言っていたので、パートさんだろう。
 このパートのおばさんに声をかけたことが、私の運命を変えた。

「しかし、あの弁当男が、まさかこんなひでえことを……」

 おじいちゃんが、私の腫れあがった頬を見つめながら、ポツリと呟く。
 パートのおばさんは、私の隣に座って、ずっと背中をさすってくれた。

「大丈夫、大丈夫。私も酒飲んで暴れるダンナから逃げてきたのよ。あなたまだ若いんだから、いくらでもやり直せる、ね?」

 この人は、自分の経験からすぐに分かったのだ。
 私が発した「から揚げ弁当を作ってくれませんか」という一言だけで、私に何が起きているのかを。
 ナオキは、この店では有名な常連客だった。
 夜十時前から店に居座り、「から揚げ以外の具が不味すぎる」と店員に文句つけながら、半額シールが貼られるのを待つという奇行によって。
 外面は良かったはずのナオキが、そんなことをしていたのだと聞かされて、私は本当に驚いた。
 壊れていたのは、私だけじゃなかったのだと知った。

「そうだよ! あいつ警察に突き出そう! 俺が……いや俺たち全員、協力するからさ!」

 長男と思われる男が、日に焼けた顔をくしゃくしゃにしながら、微笑みかけてきた。
 笑い方はおじいちゃんそっくりだけれど、母親似のコワモテな顔立ちなので、笑うとさらに怖い。
 ちょっと、ゴリラに似てるかも……。
 私がそんな失礼なことを考えたとき、母親と姉が「あんたの笑顔は怖すぎ!」「お嬢さんが怯えてるじゃない!」と同時に突っ込んだ。

「そんなつもりじゃ……」

 彼はその外見にまったく似合わない気弱な声で呟き、がっくりと肩を落とした。
 私は……一年ぶりに、笑った。

  * * *

 その後ナオキは、いなくなった。
 二村家の長男さんに付き添われて警察を訪れた、その翌日には部屋を出たそうだ。
 警察のひとから再度事情を聞かれた私は、「プライドの高いナオキには、警察に目をつけられたことが耐えられなかったのかもしれない」と伝えた。

 そして私は、ナオキと暮らした部屋を引き払った。
 残された僅かな家財道具を処分し、お金が足りない分は親に頭を下げて、ボロボロの部屋を修理し……不動産屋さんに鍵を返した。
 応対してくれた不動産屋の奥さんは、私が退去する理由を根掘り葉掘り聞き出した後で、教えてくれた。

『実はあの部屋、良く入居者さんにトラブルが起きて……あまり大きな声では言えないんですけどね、何か“憑いてる”んじゃないかって』

 冗談みたいな話よね、と明るく笑い飛ばしたけれど、私は笑えなかった。
 今も目を閉じれば鮮明に思い浮かぶナオキの姿は、コーヒーを置いてくれた繊細な手と、写真立ての笑顔。
 あの部屋の中に居るときだけ、ナオキは鬼に変わった。
 もしそれがナオキや私のせいじゃなく、目に見えない別の存在のせいなら、すんなりと納得できる気がした。

 それから新居が決まるまでの期間、ウィークリーマンションを借りた私の元に、田舎のお母さんがやってきた。

「もう疲れたでしょう? うちに帰っておいで」

 お母さんは、私を抱き締めながら何度もそう言ってくれたけれど、結局私はまだこの街にいる。
 その理由は――。

「おーい、そろそろ昼飯にしよう」

 後方から店長が声をかけてきた。
 パソコン入力の手を止めた私は振り向くと、笑顔でうなずいた。
 店長の手には、二つのお弁当がある。

 あれから私は『DVストア』の住み込み店員となった。
 そして一年後には、コワモテだけれど本当は優しい店長……二村家長男のお嫁さんとして、温かく迎えられていた。

「それにしても、お前毎日から揚げ弁当なんて……本当にいいのか?」

 彼が小さな折り畳みテーブルとパイプ椅子を用意しながら、昨日と同じ質問を投げてきた。
 私は二人分のお茶を淹れながら、もちろんとうなずく。
 普段お店が忙しくて出かけられない分、狭い事務室にニ人きりで過ごすお昼休憩は、私たちのささやかなデートタイムだ。

 準備が整うと二人並んで手を合わせ、いただきますと頭を下げた。
 秘伝のタレに漬け込まれた、肉汁たっぷりのジューシーなから揚げを、私は一口で頬張り良く咀嚼する。
 彼が「門外不出、お前でも教えられない」と言っていたタレの原料は、調理場奥の冷凍庫に保管されている。
 その扉には鍵がかけられ、私以外の家族も近寄らせないほどの徹底っぷりだ。

「あー、やっぱうちのから揚げ美味しい!」

 大きな肉塊を飲み込んで私が満面の笑みを浮かべると、彼は顔をくしゃくしゃにしながら笑って、私の髪を撫でてくれる。
 毎日鮭弁当を食べる、優しい彼。
 私と出会ってからすぐに、「ダイエットする」なんて言い出してお肉を食べなくなった。
 彼が冷凍庫に鍵をかけるようになったのも、同じ時期らしい。

 私は密かに、その鍵を複製していた。
 深夜、彼が夢を見てうなされている間に調理場へ忍び込み、冷凍庫を開ける。
 携帯ディスプレーの明かりを頼りに、霜の張り付いたアイスケース型の冷凍庫から、大量の鶏肉と液体の入った重いポリタンクを取り出す。

 その奥には黒いビニールのゴミ袋がある。
 緩めに縛られた口を開き、三重に重ねられた袋の中から私が選ぶのは、ぶつ切りにされた右手だ。
 冷気の靄が立ち上るその青黒い手に頬を寄せ、私は一時の逢瀬を楽しむのだ。

「ナオキ、大好きだよ……」

 桜並木の美しいこの街で、私は愛する人に囲まれて、幸せな生活を送り続ける――。


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【後書き】補足&作者の言い訳(痛いかも?)です。読みたい方のみ反転を。
(携帯の方は「テキストコピー」でたぶん読めます)
 以前からDVという社会問題に興味がありました。知人に被害者がいて、考えさせられることが多かったので。(DVネタは掌編でも一作書きましたが、こっちが先に書いた方です)今回なるべくライトな描写を心がけたので、ホラー度かなり低いです。救いようのないエンド(殺し合い)も考えたのですが、個人的に苦手なのでボツにしました。またホラーだとよく発狂シーンもありますが、DV被害者が主人公の場合は『内向』とか『受容』がキーワードになるため、そこもあまり怖くない要因(敗因)に……加害者の男を主人公にすれば狂気が描けたような気がします。来年はソレ系でリベンジしたいです。一点補足を。店名の由来は、二村=『DOUBLE VILLAGE』です。家族会議で『TWO』と迷った結果「TVストアはさすがにカッコ良すぎるっぺ」となった平和な元ヤン一家という裏設定でした。
※追加補足:本文に書けなかった裏設定をもう一つ。ナオキは警察訪問後、DVストアに潜入しようとして店長に捕まり……というイメージで考えております。当然温厚な店長がバラバラにして隠すくらいですから、それなりの理由が。(あとはご想像にお任せってことでスミマセン)

※2010.3.27 スピンオフ作品との関係上、一部加筆修正。2010.3.31番外編1『サクラサク ~嘘の代償~』UPしました。



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