喉ニ小骨ガ

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「春夏秋冬」
春 ~理久の章~


番外編2~恋ノ蕾(6)~

2011.03.20  *Edit 

 初めてのアルバイトは、時給九百円。半年勤めたら五十円上がるらしい。
 制服は、丸襟の白いブラウスに、黒いタイトスカート。ブラウスはシンプルなデザインだけど、布を被った球状のボタンとパフスリーブが可愛い。そこにモスグリーンのカフェエプロンを巻けば「それっぽく」見えて、一気に気持ちが引き締まる。
 葵ちゃんが塗ってくれた淡いピンクのマニキュアは落として、爪も短く切りそろえた。髪もしっかり結わえてシニョンにし、ヘアピンでおくれ毛を留める。万が一、お客さんに出す食べ物に髪がついたらいけないから。
 当然お化粧も派手なのはダメ。最近の私は手抜きも極まって、日頃からリップくらいしかつけていなかったし、この条件は軽々とクリア。
 戦闘服に身を包み、恰好だけは一端の店員さんになった。次の敵は、私自身だ。
「……い、らっしゃいませっ」
「声が小さい! 何回言わせるんだ」
「はい、すみませんっ」
 学校が終わってから、のんびりしている余裕は無くなった。私はダッシュで『CAFE・CHIKUTA』へ駆けつける。まずは夕方の一番お客さんが少ない時間帯を利用し、レジカウンターの中で接客トレーニング。まだケーキの盛り付けやお茶を注ぐのは練習中で、今はお客様のご案内と、空いたテーブルの片付けがメインだ。
 お皿を落とさないように、と一つのことに集中すると、入ってくるお客さんへの声かけが遅くなる。途端に厳しい声が飛び、私はペコペコと頭を下げる。お客さんは常連さんが多いから、そんなやりとりも笑顔で見守ってくれる。
 遠慮なくスパルタ指導してくれるのは、髭のワイルドな店員さん――高野さん。二十七才、独身、彼女アリ。このお店に勤める前は、東京の大きな会社に勤めていたらしい。ことあるごとに「俺はトップ営業マンだったんだぞー」といやらしい笑顔で自慢してくる。
 そんな高野さんが、なぜカフェ店員になったかといえば……
「あー、タカノが千紘ちゃんいじめてる!」
 チリリン、と入口ドアのベルが鳴り、飛び込んできた一人の小柄な女性。うちのお母さんの寝まきと大差ない、本当にどうでもいい店で買っただろうスウェット&パーカー姿。それなのに、匂い立つような色香を感じるのが不思議だ。
 ベリーショートの黒髪と、白人さんみたいに青白い肌、頬に散るそばかす。くりっとした大きな瞳を輝かせて私を見つめたかと思いきや、目つきの険を強めてズンズンと大股で歩み寄り、私の隣に立つ高野さんを睨みあげる。
「せっかく入ってくれた可愛いバイトちゃんなんだから、もっと優しく教えてあげなさい!」
 有無を言わさぬ命令口調で、ビシッと指をつきつける。高野さんとは身長差が三十センチ以上あるから、全く威厳なんて感じられないけれど。
「あー、ハイハイ。もっと優しくね」
「あとね、ただでさえその髭面胡散臭いんだから、もっと笑顔で!」
「あー、ハイハイ、笑顔ね」
 適当な生返事をする高野さんが、チラリと私へアイコンタクトしてくる。「いつものこと」とでもいうように苦笑して。これがこの二人のスタイルなのだ。
 彼女がこのお店のオーナー兼パティシエ、竹田さん。高野さんと同い年の二十七才と聞いたとき、私は心底驚いた。どう見ても、二十歳そこそこにしか見えなかったから。
 そして二人は、近々結婚する間柄だ。高校時代からもう十年も付き合っていて、漂う空気は長年連れ添った夫婦そのもの。お互い何でも言いたい放題で、たまに本気の口論にもなって、それでも結局は仲直りしてしまう……なんて羨ましい。
 二人のやりとりを眺めていると、私はついリクちゃんのことを思い出してしまう。同じく十年以上のつきあいだというのに、私は未だにリクちゃんと二人きりで会話なんてできない。そんな状況になったら、緊張して心臓が口から飛び出てしまいそうになる。
 その感情を恋だと思っていた時期もあったけれど、今ではちょっと違う気がしている。こうして目の前に、リアルな恋人同士が現れれば、なおさら。
「だいたいねぇ、千紘ちゃんにはもっと可愛い制服が似合うんだって! ったく、わざわざアキバまで行ってあの服買ってきたのに、アンタが一方的に却下してこんなどこにでもいるよーな地味な格好させて……」
 背負っていたリュックをドスンと床に置き、勢い良くカウンターの中に乗り込んでくる竹田さん。私の肩を抱き寄せるその襟元からふわりと漂う、甘いバニラの香り。大きくて柔らかい胸が二の腕に押しつけられ、思わず赤面してしまう。
「そーだ、千紘ちゃん。今朝新作のケーキ作ったの。今のうちに試食会しよ? 二人で」
 小さな白い手が、私の手をキュッと捕まえる。そして有無を言わさず、厨房の奥へ引っ張っていく。背中越しに、高野さんの「ハァ……」という大きな溜息が響いた。
「あの、高野さんはいいんですか?」
「あー、いいのいいの。オッサンの意見なんて当てにならないもん。千紘ちゃんみたいに可愛い女の子の意見が最強!」
 断言する横顔が心底嬉しそうで、私は苦笑した。まるで散歩で新しいルートを通ってはしゃぐ子犬みたいだ。
 私にとって竹田さんは、千晶ちゃんの次に信頼できる『お姉さん』。でもときどき、少しだけ心配になることもある。うっかりケーキを床に落として涙ぐんだと思ったら、「三秒以内!」と叫んでそれを食べようとしたり。慌てて止める高野さんの、十年分の苦労がうかがい知れる。
「にしても、その格好……やっぱ地味過ぎない? アタシが買ったやつの方が可愛いのにー」
「あ、でもこのブラウス私はけっこう好きですよ? パフスリーブだし」
「んー、千紘ちゃんが気に入ってるんならいいけどー」
 三分丈の袖を恨みがましく見つめる竹田さんに、私は恐る恐る問いかけた。
「あの“メイド服”……結局どーしたんですか?」
「うん、ちゃんと取ってあるよ。今度イベントで使おうと思って」
「イベント、ですか」
「そ。地味なお店だから、お客さん呼ぶのにいろいろ知恵絞らなきゃいけなくてねぇ……今月も売り上げは赤黒トントンだし、ここが親戚の家じゃなかったらたぶん家賃だけで赤字……」
 と、背中を丸めおばあちゃんみたいに草臥れた口調で囁く。私は慌てて明るい声を立てた。
「私っ、もっと友達に宣伝します! 竹田さんのケーキすっごく美味しいし、場所はちょっと分かりにくいけど、お店も静かで素敵だし」
「ありがと、千紘ちゃん! じゃあ夏のイベントでは“メイド”よろしくね!」
「え……」
 一瞬見せた悲しげな横顔は、一体何だったのかというくらい満面の笑み。私はまた竹田さんの新たな一面を知った。竹田さんは私に、どうしても『メイドさん』をして欲しい、らしい……。
 助けを求めて視線を彷徨わせるも、高野さんはちょうど表で接客を始めてしまった。観念して小さく頷くと、竹田さんは手を叩いて喜ぶ。
「やった! じゃあさっそく企画練らなくちゃ。あの笹が七月七日で終わるから、その後ね」
「あ……ハイ」
 竹田さんは試作ケーキを取り出そうと冷蔵庫へ向かってしまい、私の変化には気付かない。鼻歌をうたうように、『笹フェア』の成功について話し続ける。私は目を伏せ、胸の痛みを享受する。
 広がった世界と、新しい人間関係。慌ただしく過ごす日々の隙間……少しお客さんの動きが落ち着いたとき、私は決まってバルコニーの先にある笹のオブジェに視線を向けていた。
 訪れるお客さんの数だけ、小さな願いが増えて行く。揺れるメッセージカードの中に、私の書いた一枚はどんどん埋もれていく。

 私はあの日から、清水と会っていなかった。バイトを始めたとだけ伝えて、どこのお店かは内緒にして。
『ゴメン、今週もバイトなんだ』
 小さな画面の中、紙飛行機マークが飛ぶたびに、私の胸はチクンと痛んだ。

 ◆

 積み重ねる嘘にも、いつか限界は訪れる。
『大事な大事な試合なんだ。頼む! 千紘のケーキがあれば絶対勝てるから!』
 夏休みを目前に届いた、清水のメール。それまでのお誘いは、あくまで『お詫びにごちそうする』という内容だったから、私は『忙しいからまた今度ね』と受け流していられた。でも、試合となれば話は別だ。
 通学電車の中でうんと悩んだ末に、私は『分かった』と返事を送った。一分も経たずにレスが来て、その文面のはしゃぎように少しだけ気持ちが浮上する。
 清水に会うのはまだ怖い。みっともなく泣いてしまう自分が容易に想像できて、ブルーになる。
 でも私だってレベルアップしたのだ。毎日「いらっしゃいませ」の発声練習で攻撃力アップ、見知らぬお客さんとも一言くらいなら会話できるようになったし、何よりあの笹を見ることで防御力も相当アップした、はず。
 先日笹を片付けたときだって、私は冷静に作業できた。
 笹の葉を傷つけないように、結ばれた赤い紐を一本ずつ解いていく。一瞬私のくくったカードを探し出して、ビリビリに破いてしまいたくなったけれど、そのまま仕事に徹した。
 段ボールに詰め込んだ、皆の切なる願い。常にビジネスライクな高野さんが「寺でも持ち込んで処分するか?」と問いかけると、竹田さんは目を吊り上げて「こんな大事なモノを燃やすなんて」といきり立った。喧々諤々やりとりした結果、この箱は来年の笹イベントまで最低一年、倉庫の奥にしまわれることになった。
 私もそのカードに、ひっそりと自分の心を重ねた。ひとまず結論は先送り。あの感情は心の奥に閉じ込めようと。
 いつか「もう要らない」とクールに捨て去る……そんな日が来ることを、神様に祈りながら。

「……っと、この辺のはずなんだけどな」
 試合の前日、私はバイトを休んでせっせと自転車を漕いでいた。カゴの中には通学用のトートバックと、パソコンでプリントアウトした地図が挟まっている。
 前に千晶ちゃんが買ってくれた、すごく精のつく美味しい卵を求めて知らない街へ。ちょっとした冒険のようで、ワクワクする。
 当然清水には、このことは内緒だ。清水はいいかげんなように見えてすごく律儀だから、また材料費を気にさせてしまう。『バイト代』という強い味方を得た私にとっては、これくらい些細なことだ。
 それよりも私は、罪滅ぼしがしたかった。何度断っても懲りずに誘ってくれる、優しい清水に。
「バイトが忙しくて休めないなんて、全部嘘なんだもん……」
 まだ見習い中の私は、いつお店に行ってもいいよと言われている自由な立場だ。とはいえ「早く仕事を覚えたいから」と、ほぼ毎日顔を出している。お店に行けば余計なことを悶々と考えずにすむし、一石二鳥だ。
「一石二鳥、どころじゃないかも。お料理の腕もかなり上がったしね!」
 竹田さんの流れるような手さばきには到底敵わないけれど、相当手際が良くなったという自負はある。このままバイト代が溜まったら、週末カルチャー教室に通ってもいいなと思うくらい、お菓子作りへの興味も膨らんだ。何より、私のお菓子を食べて誰かが喜んでくれるなんて、考えるだけで胸の芯がポカポカ温まってくる。
 でも千晶ちゃんなら、きっと私の何倍も……とネガティブな思考に陥りかけたところで、タイミング良く目当てのスーパーが現れた。
「良かった……って、あれ……?」
 穏やかな夕暮れ時。買い物客で賑わう街並みの中に、見過ごせない違和感。
 私は目を凝らし、人混みの奥へフォーカスを当てる。自転車のブレーキをかけ、ポケットから携帯を取り出して時間を確認。試合前日とはいえ、さすがに清水たちが練習を終えるには早過ぎる。その証拠に、清水からの「今日も疲れたぞー」なんて報告メールは入っていない。
 なのに、どうして……。
 再び漕ぎ出した自転車のカゴから、用済みになった地図がひらりと落ちる。それを拾うことも忘れて、私はその人を追いかけた。訳の分からない焦燥感にかられ、グリップを握る手が汗で滑る。歩道は混雑していて、スピードが上げられないのがもどかしい。
 何度も見失いかけながらも食らいついた私は、線路沿いに百メートル程進んだ路地で、その姿をしっかり捕まえることができた。
「やっぱり……キャプテンだ」
 名前も覚えていない、清水のチームの司令塔。プラス、私にとってはもう少し特別な存在かもしれない。リクちゃんに良く似た端正な顔立ちと、ストイックな眼差しが忘れられない。しなやかにフィールドを駆ける姿も、的確な指示を飛ばす鋭い声も。
 今目の前を歩く彼は、ごく普通の高校生として街に溶け込んでいた。ネクタイを締めた制服姿で、スポーツバッグを肩にかけ一心不乱に歩みを進めている。私を怒鳴りつけたときと同じくらい厳しい横顔を隠すように、俯き加減で。そして一つの建物の前で止まり、軽く左右を見やった後、気配を消すように中へ滑り込んでいく。少し離れて見守る私には、たぶん気付いていない。
 私はその建物の正面まで自転車を進めた。見上げた看板には『安田整骨院』とある。
 胸に過る、一つの直感。スポーツ選手にとっては避けられない苛酷な運命。
 きっと彼は、どこかに怪我を負っているのだ。それはチームメイトにも内緒で、明日の試合に出られるかも分からなくて……。
「なんて、考えすぎ、だよね」
 湧き上がる不安を胸にしまい、私は駅前に引き返した。食材を買い込んで会計を済ませたとき、清水からのメールが届く。『質より量でよろしく!』の言葉に、私は「質も量も、だよ!」と鼻息を荒くした。

 ◆

 目の覚めるような青空の下、私は大きな紙袋を抱えて清水の学校へ向かっていた。
 白いノースリーブのキャミソールに、おろしたてのデニムスカート。同じくまっさらな濃紺のスニーカーが、私の足を軽やかに運ぶ。
 考えてみれば、試合は土曜日……つまり、私は制服を着る必要が無い。ということは、清水に私服で会わなければならない……。
 昨夜その事実に気付きパニックになった私は、焼き上げたケーキの粗熱を冷ます間に慌てて駅ビルへダッシュ。閉店間際のフロアを何往復もした結果、スポーツ系のブランドショップで手ごろな服と靴を買った。ちょっと散財してしまったけれど、大丈夫。私には『バイト代』という強い味方がいるし!
「でも芝生に座るし、ジーパンにすれば良かったかなぁ……スカートの方が、足太いの隠せるんだけど。足っていうか、お尻っていうか」
 ぶつぶつ呟きながら、チラリとスカートのお尻を気にする。千晶ちゃんは良くジーパンを穿いていて、それはほっそりしたスタイルに良く合っている。一方私の足にはたっぷりお肉がついていて、千晶ちゃんの服を貸してもらうことは不可能だ。全て日頃のお菓子摂取量の結果なので、「双子なのにスタイル良くてズルイ」なんて文句はお門違い。
「バイト始めてから腕力はついたんだけど、足はむくんでどんどん太くなる気がするよ……ちょっと早起きして、ジョギングでもしようかなぁ。駅まで往復するくらいなら」
 と口に出したところで、私は想像してしまった。早朝の駅前、ジャージ姿にタオルをほっかむりして、こっそり清水の出発を見守るストーカーな自分の姿を。
「やっぱやめ! ただでさえ昨日、ストーカーしちゃったんだから……」
 慌てて首を横に振ると、ポニーテールに結わいた髪がパシパシと頬を打つ。目を覚ませとでもいうように。
 今日の私は、かなり浮ついている。舞い上がったあげく変な失敗だけはしないように、と自分を戒めると、私は大事な紙袋を抱え直した。

 グラウンドに到着すると、広がる光景は以前と少し違った。
 休日、しかも練習試合ではなく大会の一戦目ということで、私の他にもギャラリーがいる。生徒の家族らしき集団が、少し離れた芝生の上にビニールシートを広げて陣取り、向こう岸には敵チームの応援団も少し。中には華やかな女子高生の集団もいて、ウォームアップするメンバーを指差し黄色い声をあげている。
「まさか、清水のファンじゃないよねぇ……」
 乾いた笑いを浮かべながら、私は前回観戦したあたりを目指して芝生を進んだ。遠目に見える清水は、背が高い分集団の中にいてもかなり目立つ。外見や態度はどこからどうみても三枚目だけれど、最近髪型もマトモになったし、何よりプレイ中は別人みたいになるし……なんて心配は、完全に杞憂だった。
 女の子たちの背後をそろりと通り過ぎたとき、小耳に挟まったのは『長塚さん』という名前だった。靴ひもを結び直すフリをしてしゃがみこみ、しばらく聞き耳を立ててみたものの、清水のしの字も出てこない。ホッとする反面、「清水だってカッコイイとこあるんだから」と妙な苛立ちを覚えたりと、なんとも複雑な気分で立ち上がる。
 その集団の影から抜けた直後、グラウンドの隅に立つ清水と視線が交差した。
 身構えた私が表情を強張らせるのと、見事なくらいの反比例。パアッと破顔した清水が、またもや勝手にチームメイトの輪を抜けこっちへ駆け寄ってくる。女子の集団も何事かと私へ視線を送る……その目の前で。
「ちーひろーッ!」
 見えない尻尾をちぎれんばかりに振り、百メートル十秒を切るんじゃないかという勢いで突っ走り、呆気にとられる私の目の前で急ブレーキ。新陳代謝が良いのか、ウォームアップを念入りにしていたのか、ふにゃっと眉尻を下げて笑う顔は汗だくだ。
「良く一人で来られたな、偉いぞッ!」
 前回も聞いた台詞に「子どものおつかいじゃないんだから」と反論するも、清水の耳に念仏。興奮した犬みたいに落ち着きなく、私の肩や頭をバシバシ叩きまくる。体育会系の愛情表現に慣れていない私を翻弄しまくって、「あ、ヤベ。また後でな!」と駆け戻ってしまう。まさに小型の台風。せっかくリボンを結んだ私の髪はぐちゃぐちゃになってしまった。
「もぉ……何なのっ」
 すぐ近くに居る女子集団が、不躾なくらい分かりやすい好奇の視線を向けてくる。それを振り払うように呟くと、私はふくれっ面のまま芝生に腰かけた。一度髪を解いて手櫛で整え、手さぐりで結わえ直す。
 全く、試合の応援に来ただけであんなに喜んでくれるなんて、単純なのにも程がある。
「まあ、素直っていうか、可愛いっていうか……嬉しくないわけじゃないんだけど」
 火照りかける頬を両手で抑えて独り言をする間に、グラウンドではミーティングが始まっていた。円陣を組む選手たちを眺めながら、私は妄想する。
 あれだけパワーに満ち溢れているし、きっと清水は試合でも活躍するだろう。チームが勝利を掴んでもそうじゃなくても、私は笑顔で「お疲れ様」と言ってこのケーキを差し出そう。もし他のギャラリーから美味しい差し入れが届いたとしても、清水はこのケーキを誰よりも喜んでくれるはず……。

 ほんの数時間後に訪れるはずの、幸福な想像。
 それを崩したのは、私自身だった。
 選手がフィールドに散らばり、試合が始まると同時に、私の目はたった一人に釘付けとなった。
「長塚サーン!」
 すぐ隣から上がる歓声。試合が始まってから、キャプテンにボールが渡るたびに手を取り合いはしゃぐ女の子たち。その表情は喜びに満ちているというのに、私は一切笑えなかった。私の目は、彼女たちと違うものを映していた。
 特別な時にだけ見える気がする、人のオーラ。視線の先に立ち上る黒い靄が、私の鼓動にリンクして警鐘を鳴らす。
 誰も気づいていないだろう、前回の試合との決定的な差。彼がボールを受けるたびに、右足を踏み込むたびに、胸の奥の不安が大きく膨れて行く。
 もう耐えられない――そう察した私は、ハーフタイムのホイッスルと同時に、グラウンドへ向かって駆けだしていた。

 ◆

「あのっ!」
 吹き出す汗を拭い、荒げた息を整えながらひと時の休息を得ていた彼らは、突然の闖入者に目を瞠った。
「千紘、どーした……?」
 すかさず声をかけてくる清水を一瞥し、私は首を横に振る。用があるのはあなたじゃない、目線でそう伝えて。そのまま選手たちの背後を突っ切り、ベンチの一番奥に腰かける彼に近づいた。
 怪訝な表情を通り越し、不快感を露わにしたキャプテン。口を開きかけるものの、周囲の射るような眼差しに一旦躊躇する。ここで逡巡している暇はないと再確認し、勇気を出して言葉を紡いだ。
「あの、キャプテンに、お話があります」
「千紘ッ?」
 困惑した清水が、大きな声をあげる。と、他のメンバーも何事かと騒ぎ始める。誰かが漏らした「監督」という声に私の焦りは強まる。眼下のキャプテンは、椅子に腰かけたまま微動だにせず私を見上げている。寄せられた眉からは少しの嫌悪感、でも瞳はガラス玉のようで一切の感情が見えない。
 私は思い切って、もう一歩踏み込んだ。腰を屈め、彼の耳元で最も効果的な一言を囁く。「昨日の夕方」と。
 その瞬間、キャプテンは立ち上がった。涼やかな切れ長の目を大きく見開き、憮然とした表情で告げた。
「ちょっと来い。皆はここに居ろ」
 逆らうことを許さない声色。私の腕を無造作に掴み、強引に引っ張っていく。呆気にとられるチームメイトを置去りに、観客の目の届かない校舎側へ。歩幅の違いなど一切考慮してくれないから、私は半ば引きずられるようについていく。
 身体が校舎の影に隠れると同時に、彼は私を放り出した。じんと痛みを訴える腕を擦ってみるも、謝罪の言葉はない。そんなことをしている暇はない、と鋭すぎるその眼が語っていた。
「お前、どこでそれを?」
「……偶然見かけたんです」
 我ながら胡散臭い台詞だと思った。当然彼もそう思ったのだろう。形良い顎に手を当て、半信半疑といった目つきで私をねめつける。表情には出にくいけれど、相当混乱しているに違いない。リクちゃんも、ときどきこんな顔をするから分かる。
「まあ、それはいい……だから何だ?」
 短い台詞からも伝わる、皮膚を突き刺すような苛立ち。私は負けじと拳を握りしめた。
 遠くから見ているだけの私にも、言えることがある。
「その右足、痛いんじゃないですか?」
「まさか」
 言葉尻に覆いかぶせるように、彼は吐き捨てた。私から逸らされ、巻かれた膝のサポーターへと向かう苦々しげな眼差し。何かを堪えるように震える肩。
 私は確信した。この人は嘘をついている。
「このまま試合出てもいいんですか? 昨夜先生は何て」
「――うるさい!」
 今日は笑顔で皆をねぎらいたい……そんなささやかな夢は潰えた。そのとき私はもう泣いてしまっていた。
 ただ心だけは、折れていなかった。淡く歪む視界の中、目を背けずに私は言った。
「チームの皆を、信じてないの……?」
 風に消えてしまうくらい細い掠れ声にも、計りしれない攻撃力があったらしい。キャプテンの目に浮かぶ強気な光は消え、口元が苦しげに歪んだ。
 どの程度の怪我をしてるかなんて、何も分からない。それでも直感に導かれるまま、私は言葉を重ねる。
「今無理して勝ったって、この先もずっと試合は続くのに」
「そんなこと、お前に言われるまでもない」
「私だってこんなこと、言いたくないです」
 そして訪れた、数秒の沈黙。その間にも、両方の頬から首筋へと止め処なく流れる冷たい雫。私はこんなときだというのに、リクちゃんのことを思い出していた。リクちゃんは私の涙にめっぽう弱いのだ。私が泣いたら、千晶ちゃんを放ってでもこっちに来てくれる……。
 激しく荒れ狂う感情をぶつけてくる彼の鋭い視線が、ふっと逸らされた。
「……くそっ」
 きっと、薄氷の勝利だった。
 唇を噛みしめ、彼は私に背を向けた。汗で張り付く背番号の右側、ユニホームの袖に伸ばされる指先。括られたキャプテンの腕章を外しながら、少しずつ小さくなる後姿。
 カクン、と膝の力が抜ける。私は湿った土の上にへたり込み、遠ざかる背番号をぼんやりと眺めていた。

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